「男だろ!」にざわついた心

2021年も2月に入りましたが、正月の話です。

今年は久しぶりに実家で年始を迎えることができました。私は小さい頃から自宅の近くを走る箱根駅伝を家族と一緒に見てきたのですが今年は感染症の影響もあり、久しぶりに家で餅を食べながらテレビで箱根駅伝を見ました。

今年はまれに見るドラマティックな展開があり最終10区、ゴール手前2kmでの劇的な逆転で駒沢大学が総合優勝を遂げました。

逆転が現実味を帯びそうな状況になってきた時、選手の後ろを走っている監督車から聞こえてくる声に違和感を感じました。

「男だろ!行け!」この大八木弘明監督が選手にかけた「男だろ」発言はSNSでは賛成の声も多く聞こえました。

「男らしさ」とは

「選手が監督の檄で奮起したのだから良い声掛けだ」「選手と監督という本人同士が良ければそれでいい。外野がとやかく言う問題ではない。」

スポーツは勝つことに繋がれば、どのような方法でもこのような檄を入れてもいいのでしょうか? もしくはこのような発言は、公でなければ、内輪だけのものであれば良いことなのでしょか? 

私は「男らしさ」という言葉を「立派で優れた人間」という意味で使っていることにジェンダーに対する偏見を感じるのです。

なぜ問題かというと、もちろん「立派で優れた人間」は男性だけがなるものではありません。女性も「立派で優れた人間」は数多くいるからです。「理想的な人物像」というものは誰もが望むものですが「男」という言葉と紐づけて理想の人物像を表すことは、ジェンダーに対する誤った固定概念からくるものでとても違和感を感じます。

もし、それに違和感を感じない方は、次の場面を想像してみてください。

例えば、全日本大学女子駅伝大会で、同じ様な場面があったとして監督から、「お前女だろ。行け!」という言葉が出てくるでしょうか? おそらくありえないですね。反対に抜かれた選手は「女々しい」のでしょうか?そんなことはありません。

女性が素晴らしい能力を発揮した時に「男勝りの動き・行動」と表現されます。この表現も何か変ですよね。それはスポーツでも、一般社会でも、「女だろ」と言って励ましたりしないからです。「男だからやれるだろう」という考えは男性優位主義を感じさせられます。

今週、朝日新聞のオピニオンの1面でこの発言について取り上げられていたのですが、ジェンダーに対する固定概念に違和感を持つ人が増えているな、と気付きました。しかし、違和感を持つ人が少なく無いのに、あの発言が称えられるのはなぜでしょう。

スポーツは別という異質な考え方

「男だろ」が称えられる理由の一つとして、競技という戦いの場においては「戦いは男に任せろ、力のない女は戦いの邪魔だ」と男性優位の社会が歴史的に戦いの中から構築されてきた経緯があり、それをスポーツに当てはめているところがあるからです。

だから、競い合っている場面で「男だろ・男を見せろ」が潜在的に持っている意識として自然に言葉となって表に出てくるのです。

スポーツは、もともと男の行為、すべきもの、というイメージが圧倒的に強い社会では、競技に勝つことが「男をあげる」「男の中の男」ということではないでしょうか。スポーツでは許されるという例外的な考え方を「異質なもの」と感じなければ、人格を無視するような暴力や暴言を用いることを容認し、一般社会ではパワハラとみなされる発言や行為が今でも特にスポーツの世界では継続して発生しているのです。

「スポーツなのだから、そこまで目くじらを立てることはない」という人もいるかもしれません。私はその意見には強く反対します。スポーツは単なる競技ではなく時として社会や政治、経済そして日々の暮らしへと影響を与えているからです。

スポーツから学ぶジェンダー

駅伝もそうですが、日本で男性に人気あるスポーツは野球やサッカーですがチームプレイなので全員の意思の統一と連携が求められるものです。

個人個人がチームを支え合い、それが輪となりさらに和となって勝利を目指し競いあることが大切でそこには「男らしさ」も「女らしさ」も必要がないのではないでしょうか。

ジェンダーに関する固定概念は残念ながらまだ日本では一つの文化になっています。

まずスポーツからでも「男らしさ」や「女らしさ」という概念から解き放つことで社会が変わっていく必要があります。それは、我々の毎日の生活のちょっとしたことから変えていくべきものです。

スポーツを通じて、これから競技を始める子供達にどの様なメッセージを発するか、指導者は意識する必要があります。それ以上に、この様な話題を家族や学校で話し合っていくことが大切だと思います。